記録によると、建仁三（1203）年、元久二（1205）年、承元二（1208）年に上人湯屋に滞在したとある。明月記にみられる湯宿は、上人湯屋（又は上人法師屋・上人房）、湯口屋（本湯屋）、仲国屋（仲国朝臣湯屋）の名がみえる。上人湯屋は薬師堂温泉寺の上人房で、湯口屋は温泉湧出の浴場入口にあり本湯屋東屋ともいわれている。鎌倉期の有馬は、中央の有力者や朝臣が湯治用の湯屋をつくり、京都の朝廷に仕える人々は湯治をしたという。

鎌倉幕府と結んで京都に大きな勢力を誇っていた藤原定家の義弟・西園寺公経は、晩年幾度となく有馬に訪れていた。1227年頃、有馬に赤斑瘡（あかもがさ）が流行ると湯治を止め、1231年、水田（吹田）の山荘に、有馬の湯を毎日桶200運ばせたという記録がある。大変大掛かりなものだったようだ。南北朝時代に入ると、将軍の御湯治料として有馬の湯の汲人夫と桶代を付近の庄屋に課していたという資料があり、将軍家も汲湯湯治を行っていた。

虎関師錬は、早期の五山文学を代表する人物。鎌倉時代末期から室町時代にかけて、禅宗寺院で漢文学が流行する。幕府の外交文章を起草する必要性もあり、四六文を用いた法語や漢詩をつくる才能が重要視された事で五山文学が盛んになった。そのなかで温泉文学も生まれたが、ここで「温泉」とは有馬温泉を指していた。南北朝初めころから五山僧が有馬に来湯した。南北朝時代の有馬湯治行は、「祇園社執行日記」に詳しく記されている。

一の湯の西にある家屋を御所といい温泉寺の管轄である。これは足利義満がここに泊まったので御所という。当時は、現在の「金の湯」あたりで、一つの浴槽を二つに仕切り南側を一ノ湯、北側を二ノ湯と呼んでいた。亨徳元（1452）年、瑞渓周鳳が有馬に湯治し、温泉行記（五山文学新集四所収）に詳しく旅程や有馬の様子を記載している。瑞渓が泊っている湯宿を息殿というのは、義満が小休止を取ったからだといわれている。

文明15（1483）年8月29日、蓮如は有馬へ湯治に赴き、9月17日帰る。名前に「坊」がつくようになったのは、1483年に蓮如上人が逗留した頃からと伝わる。「岩坂や七坂八たうけこえすきてありまの山の湯にそつきけり」「さかこえてえにし有馬の湯舟ひはけふそはしめて入そうれしき」「ゆの山をいつけしきの道すからかまくら谷のおもしろきかな」「日数へて湯にやしるしの有馬山やまひもなおりかへる旅人」と打詠して、湯山御所坊之宿をたちぬ（蓮如上人行実より）。

最初に秀吉が有馬の地を訪れたのは、天正7（1579）年。その後、三木城が開城した天正八(1581)年2月に、有馬温泉に浴し、城攻めによる疲労のため深く眠りこけたという。これが秀吉の有馬入湯に関する最古の記述である（有馬地誌）。天正十七（1590）年9月には、金湯山蘭若院阿弥陀堂にて「有馬大茶会（ありまだいさのえ）」を実施。また、大火によって焼失した薬師堂の復興や慶長伏見地震後に泉源の改修工事を行うなど、幾度となく有馬を窮地から救ってくれた。

御所坊の中庭に、良寛の歌碑が建っている。建碑者は名古屋市在住の書家、川口霄亭氏。「ありまのなにてふむらに やとりて さヽのはにふるやあられのふるさとの やとにもこよひ月を見るらむ」。良寛が国仙和尚のもとで修行を了えた後、諸国を行脚修行し、帰郷の途についたのは39歳の時であったと云われている。赤穂-韓津（姫路市福泊）-明石-須磨-生田－有馬-吉川（高代寺）を経て京都に入っている。有馬の歌はその時に詠んだのであろう。

神戸開港場外国事務一式の事例を受けた伊藤博文は、キルビーやハンターたちと親しくなり、整備が行き届いていない居留地の整備を行った。その後、初代兵庫県知事に任命される。パーティーを開き、ハンターたちの勧めで牛肉を食べて、神戸を近代的な街に整備した。その後、４４歳で英語力を買われ、初代首相となる。御所坊には、伊藤博文が訪れスキ焼を楽しんだようで「高談娯心（こうだんごしん）」と書かれた書が残っている。

奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画し、また一方で、古典の研究にも業績を残した歌人・与謝野晶子。有馬に通う文学者の一人で、「花吹雪 兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く」と、御所坊前の桜並木の風景を詠んだ。神戸名木100選に選ばれている善福寺の「糸桜」は樹齢270年を越えているが、その桜は、御所坊の客室や食事処「閑」からも臨むことができる。

日本の伝統美の本質を説いた世界的な名著『陰翳礼讃』の著者・谷崎潤一郎。彼の小説の舞台には、しばしば有馬温泉が登場する。例えば、『猫と庄造と二人のをんな』では「そしたら又御所坊の二階にしようか。」「夏より今の方がええで。紅葉見て、温泉に這入って、ゆっくり晩の御飯を食べて……」といった風に。また、代表作の『細雪』に出てくる有馬の宿「花の坊」は「花小宿」のことだが、実際に泊まった宿は御所坊だった。

吉川英治は「宮本武蔵」や「三国志」、「新・平家物語」など、歴史をテーマにした大衆小説を執筆し、戦前戦後を通して幅広いファンをもつ日本を代表する小説家だ。彼が「新平家物語」を執筆する際、取材旅行で御所坊に泊まった事を「随筆　新平家」に記載している。その中で、こんな句を詠んでいた。「水音は 二階に高き 河鹿かな」。

絵画、彫刻、陶芸、建築、篆刻、茶の湯と、幅広い領域を横断し創作活動を展開する綿貫宏介は、1986年から御所坊のプロデュースに関わってきた。「無方庵」（実際はサンズイに方）と名付けられたその世界観は、製作、デザイン、プロデュースなど、ものに応じて形態を様々に取りながら、唯一無二の趣を湛え続けている。無方とは、物事に囚われないさま、融通無碍のこと。荘子の南華真経にある「應物無方」に由来する。